今日は雨が降ったので一日家のなかで過ごしていました。
- パソコンで作業をした
- 楽器を練習した
- ゲームをした
これだけです。三行で済みました。
飯は昨日作り置きしたシーフードカレーを温めて食べました。
何もしない日は退屈なのか?
セミリタイアをすると、何もしない日が生まれます。
特に雨の日はすることがないです。
散歩やジョギングができません。また、必要もないのにガソリンをがぼがぼ使って1.5トンの自動車を走らせる気にはなりません。
ほんとうのところ、図書館に出かけて本が借りたいのですが、まだ住民票を移してないので借りれません。
八方塞がりです。
なので、しとしと降る雨音を聞きながら、静かな家のなかで上記のことをしていたわけです。
先日発見した、気持ちがいい散歩道
朝起きて何も予定がないのは解放である
今日一日、何もすることがないのだ。
朝、アラームなしで自然に起きて、第一に思うことがこれです。
とても新鮮な気分ですね。
労働者でいたときはたくさんやることがありました。なにはともあれ、朝起きたら「職場」に向かわなければならない。朝食をせかせかと食べて、ひげを剃って、パリッとした服に着替えて、定刻までに出社する。実に膨大な作業量をこなすわけです。
休日になってもやることはたくさんあります。自動車のメンテナンスをしたり、散髪にいったり、歯医者にいったり、洋服を買ったり、デートや飲み会なんかもあるかもしれません。そして、「休養」「気晴らし」もしなければなりません。日曜日が終わったら、5日間の労働が待ってるのだから。
正直言って、日本の労働者のみなさんはすごいですよ。その生活で平均年収400万円(手取り300万円)とかひどい搾取ですね。最低でも800万円はもらっていいと思います。
セミリタイアは今ここに生きることができる
セミリタイアをすると、「今ここ」で生きることが可能になります。
労働者でいたときは、つねに数時間後のこと、明日のこと、一週間後一ヶ月後のことを考えていました。未来の自分の状況を予測して、そのために行動する。そのために、現在の自分を細切れにして、未来の自分に準備しなければならない。
だから、労働者生活をしていると自分というものが分裂していく気分になります。
一方で、リタイア生活の日々は……起きて、しばらくぼんやりする。眠気覚ましに、腕立て伏せをする。カーテンをあけて、朝日をとりこむ。ラジオをつける。そういった何気ない行動をしているときに、「自分が自分と一致している」という感覚になります。
私がよく思い出すのは、ミヒャエル・エンデの「モモ」の解説だったかな? の引用です。
計画的に仕事をすることは未来を生きることであるよりは未来を現在化してしまうことであり、したがってこの現在において仕事そのものを楽しむことでもなければ、見知らぬ他者と出会う可能性に開かれていることでもありえない。計画策定段階で想定した現在化した未来をこなしていくことなのである。仕事はいつも「こなす仕事」であるほかなくなってしまう……これは「いい子」の生き方でもある。こうあらねばならない自分が決まっていて、生きることはそのあらねばならぬ姿との隙間を埋めていくことを意味する。そしてあらねばならぬ姿との隙間からつねに自己評価を行い、さらに頑張る。そこには現在を楽しむことや、不意打ち的他者と出会う可能性が閉ざされてしまっている。(ミヒャエル・エンデ「モモ」)
セミリタイアをすれば、「未来を現在化」することはなくなります。未来のために今行動するのではなく、今したいことを、今することができます。
少し退屈だけど、労働生活よりずっとまし
セミリタイア生活は、刺激がほとんどないです。
退屈は退屈ですが、すぐに慣れるでしょうね。あきらかに労働生活より豊かだと感じますから。
自分が自分でいられる、自分が好きなことを好きなだけできる。これはすばらしいことです。
もっとも、だらだら過ごしたら、ゲームと酒だけで終わる、ということにもなりかねません。自分を甘やかすだけではなく、自己規律が必要なのもセミリタイアです。
私はこのありあまる時間を有効に使いたいです。働いていたらできないような大きなことに挑戦してみようと思っています。