士君子「金のない奴は俺んとこにこい!」
なんだよ野菜の本か?🥕
とおもったらリタイア者向きの本でした。
以下は湯浅センセーの翻訳を引用していきます。
「菜根譚」に学ぶお気楽リタイア道
洪自誠 万暦年間(1573年 - 1620年)の人物とされる。……守屋洋によれば、詳しい経歴は不明ながら、若い頃科挙の試験に合格して官界に進んだが中途で退き、もっぱら道教と仏教の研究に勤しんだとされる(洪自誠 - Wikipedia)
よーするに超エリートだったけどリタイアしたおっさん。
「菜根譚」が書かれた明代末期は:
- 外国に攻められてもいないのに
- 腐敗が極みきって没落し
- 醜い争いがくりひろげられていた
とか。
(どっかで見たよーな🙄)
「楽ばかり」では成長しないぞ
逆境の中に居らば――
逆境の中にいるときは、身の周りのすべてのことが鍼(はり)や薬になり、それで節操を砥ぎ、行動をみがいているのであるが、本人はそれに気づいていない。[これに対して]順境にあるときは、目の前のすべてのことが、実は刃や戈となって、それで肉を溶かし骨を削っているのであるが、本人はそれを知らずにいる。
逆境はきづかないうちに薬になっている。
順境こそ身を滅ぼす。
「さいきん調子いいなあ~😋」
というときほど、気をつけなければいけない。
あまり孤独に暮らしてもよくない
富貴を浮雲にするの風ありて――
富や名声を、あたかも浮雲のようなものとみなす気風があっても、決して深山幽谷に隠れ住むようなことはしない。山水を愛好する癖が不治の病となるようでなくても、常に酒や詩を楽しむ風流の心を持っている。
富や名声はふわふわしてあてにならないもの。
かといって、社会から完全に離れるのもよくない。
社会の良いところは楽しんで、ダメなところからは離れる。
なにごともバランスなのです……😋
財産が多すぎても不安に襲われる
多く蔵する者は厚く亡う――
いっぱいに抱え込んでいる者は、失うものもまた大きい。だから、富んでいる者は、貧しい者がそうした心配をしなくてすむには及ばない、ということを理解すべきである。また、足高に歩む者は、つまずき倒れることもまた早い。だから、身分が貴い者は、賎しい者が常に心安らかにしているのには及ばない、ということを理解すべきである。
- 資産1000万円で3%減ったら30万円
- 資産10億円で3%減ったら3000万円
だったら、損失に苦しむのは後者でしょう。
財産が多ければそれだけ不安や苦しみも増幅される。
「正しいこと」でお金を稼ぐと増えていく
富貴名誉、道徳より来たる者は――
道徳心に基づく富貴や名誉は、山林の中の花のようだ。自然に枝葉が伸び茂っていく。事業の成功によって得られたものは、鉢植えや花壇の花のようだ。移しかえられたり、捨てられたり拾われたりというありさま。権力によって得られたものは、花瓶の中の花のようだ。根がないのだから、やがて萎むのは目に見えている。
- 正しいことをして得られたお金や名誉は、健康的に育っていきます
- 権力で得られたものは一見華やかだが、すぐにしぼんでいく
リタイア後にお金稼ぎするなら、正しくお金儲けしたいですね……😘
お金の執着を捨てたら「道徳」からも解放される
功名富貴の心を放ち得下さば――
手柄と名声、豊かな財産と高い地位、そういったものを求める心を解き放つことができれば、それで凡人の境地を脱することができよう。また、道徳仁義といった世俗の価値観を解き放つことができれば、やっと聖人の境地に入ることができよう。
- お金!有名!地位!みたいな世俗的価値観をなくすと「脱凡人」
- 倫理観や道徳心にもしばられなくなると「聖人」
ここはラディカルですね。
聖人はもはや倫理規定にもしばられない。
これはべつに悪人になれというのではなく(それでは今度は悪にしばられる)
「あらゆるものから解放される」
ということです。
貧乏なら貧乏で楽しいのだ
子生まれて母危うく、鏹積んで盗窺う――
子どもが生まれるとき母親の命は危うくなる。鏹(きょう、銭さし)にお金を貯め込めば盗っ人がそれを狙う。どんな慶び事も心配の種にならないことがあろうか。貧乏すれば費用を節約し、病気になると体をいたわるようになる。どんな心配事も喜びにならないことがあろうか。だから、達人といわれる人は、順境も逆境も同一視し、喜びも悲しみもともに忘れ去るのである。
ハッピーなときは単純にそれを楽しむ。
しんどいときはそれはそれで楽しむ。
「失敗と成功を同一のものと見よ」
これが人生の達人の姿勢なのです。
いちばんゆたかなのは「足るを知る人」
得るを貪る者は、金を分つも――
物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても玉(磨いた宝石)を得られなかったことを怨み、貴族の爵位を与えられても[領土を持った]諸侯になれなかったことを怨む。それゆえ、権門豪家でありながら、心は物乞い同然に甘んじているのである。[反対に]足るを知る者は、粗食であっても豪華な肉や米よりおいしいと感じ、粗衣であっても高価な皮衣よりも暖かいと思う。身は貧しい庶民でありながら、心は王侯貴族にも劣らないのである。
「金持ちでも心はビンボー」
そんなヤツばかりの資本主義社会です。
- ビンボーメシを食い
- 中古のユニクロを着る
私の心も「王侯貴族に劣らない」のかも……😋
「投資でボロ儲け」したら注意しよう
分に非ざるの福、故無きの獲は――
分を過ぎた幸福や、理由のない授かり物は、天が人をつり上げるための餌でなければ、人の世の落とし穴である。ここをきちんと見極めないと、天や人の設けた術中に落ちないことはまれである。
- めちゃくちゃ金が増えた!
- めちゃくちゃバズった!😍
みたいなときほど警戒しなきゃいけない。
私も
「株価ぶちあがってますぞー!寝金増寝金増」
とブログに書いた次の日暴落とかしょっちゅうです🥺
趣味を楽しむときは道具にこだわらない
花を栽え竹を種え、鶴を玩び魚を観るも――
花を植え竹を植え、鶴と遊び魚を見ても、ひとつ心に得るところがなくてはならない。もしも漠然と風景を楽しみ、ただ高級品に心を奪われるようであっては、わが儒家のいうところの受け売りの学問、仏教でいうところの空にとらわれた考えでしかない。そこに何の風流があろうか。
- 写真を趣味にするのにレンズ沼にハマったり
- 音楽を聞くのにオーディオにハマったり
道具にこだわってもしょーがない。
大事なのは新しい発見をすること。
本質を楽しむことでしょー……😘
忙しすぎてもヒマすぎてもよろしくない
人生太だ閑なれば、則ち別念窃かに生じ――
人生は、あまりにヒマすぎるといつの間にか雑念が生じてくるし、あまりに忙しすぎると本性を発揮できない。だから士君子たる者は、体と心を労するように努めなければならないが、一方ではまた、風流の趣を楽しむようにしなければならない。
「ヒマすぎても忙しすぎてもダメ🙅」
これは私も共感しますね。
リタイアしたらヒマすぎる……と思いきや「忙しすぎる」ことも。
関連:【リア充無職】リタイア生活が「充実しすぎ」でむしろ忙しいです
「エライ友人」より田舎のしょぼい友人がいい
市人に交わるは、山翁を友とするに如かず――
都会の人と交際するよりは、山の中に住む老人を友とした方がよい。朱門<貴人の家>に拝謁するよりは、白屋<粗末な家>に住む人々と親しくなった方がよい。街中のつまらぬうわさ話に耳を傾けるよりは、きこりや牧童の歌を聴く方がよい。今の人の不徳や過失をあれこれ言うよりは、昔の人の立派な言動について語る方がよい。
「高貴な人、都会でバリバリやってる人」
より
「田舎でのんびり質素に暮らす人」
と付き合ったほうがいい。
これ私もなんとなくわかります。
金持ちや成功者の相手ってなんか疲れるんですよね……🙄
ハイキングや読書で心の汚れを取り去ろう
山林泉石の間に徜徉して、塵心漸く息み――
山や林、泉や石といった自然の中を散歩して、世俗の塵にまみれた心はようやく消え去り、一方で、詩書や絵画といった趣味の中にゆったりと遊んで、世俗の気質も消えていく。だから君子たるものは、外物に気を取られて心を失ってはならないが、一方では、常に外境を借りて心を整える必要がある
- 登山
- 読書
- 美術館めぐり
やっぱリタイア後はこーいう趣味がいい。
もちろんそれに囚われてはいけないが、借境調心(よい環境を利用して心を調える)は大事なことなのです。
北海道駒ヶ岳より。山はいい……🥺
ほんとにスゴイ人は金がなくても他人を救える
士君子は貧なれば、物を済う能わざる者なるも――
士君子と呼ばれる立派な人は、清貧の暮らしをしているから、金銭面で他人を救うことはできない。だが、他人が愚かで迷っているところに出逢えば、適切なひと言によってその人を迷いから目覚めさせることができる。また、他人が救いを求めて苦しんでいるところに出会えば、適切なひと言によってその人を危難から解き放つことができる。これもまた、士君子の限りない功徳である。
金のない奴は俺んとこにこい!
私もそんな人間になりたいですね😍
終わりに ステキなリタイア本です
菜根は固くて筋が多い。
それを噛み締めてこそ真の味がわかる。
洪自誠も時代に翻弄されて苦労したでしょう。
だからこそ人生の味がわかったのかも。
- FIRE
- セミリタイア
がさいきんのブームです。
リタイア者の本がいろいろ出版されてます。
しかし、古来文明あるところにリタイア者はいた。
やはり
「古典」
がいいですね。
「ホンモノ」
を感じます……😘
同時代のリタイア者:【37歳で退職】「モンテーニュ」が完全にリタイアブロガーです