社畜にあらず、リタイア者にあらず
半隠遁なセミリタイア
「もうこんな社会イヤ🥺」
と世俗を離れるひとは昔から多かった。
多くはお坊さんだった。
しかし、世を離れながらも、お坊さんになりきらない。
「半隠遁者」
がけっこーいた。
中世ニッポンのセミリタイア者(?)
たとえば芭蕉。
僧に似て塵あり
俗に似て髪なし
と彼は自分を表現します。
坊主の格好はしているけど、煩悩まみれ。
俗人っぽい身なりだけど、髪だけは剃っている。
良寛も似たこといってる。
俗に非らず沙門にも非らず
親鸞はこう。
僧に非らず俗に非らず
親鸞は日本の「トップオブ坊主」ですが。
妻帯したし肉も食った。
僧籍も剥奪されてる。
「まともな坊主」ではない。
でも、法衣を着て、念仏を広めてるから、俗人でもない。
そーいう中途半端なところにいた。
海洋堂から親鸞フィギュア出てた😂
中途半端がいちばんいい?
親鸞が生きた時代は、持戒僧と破戒僧がいた。
- 持戒僧:戒律をまもって、修行にはげみ、クリーンに生活するタイプ。親鸞の師匠の法然はこのタイプだった。
- 破戒僧:妻帯するし、肉食もするタイプ。当時はこっちのほうが主流派だった。
親鸞はどちらにも属さなかった。
子どもがいたから、持戒僧ではない。
破戒僧になる。
でも、多数派をしめる破戒僧のグループにも入らなかった。
「自分は僧でもない、俗でもない」
だからこそ、彼はなににも縛られないユニークな思想を打ちだしたともいえる。
どっちつかずの半隠遁がベスト
「自分はこ―いう存在だ」
と決めるのはかんたんです。
「自分はエリート会社員だ」
と思うなら、バリバリ働いて、年収をネットで自慢して、家を買って、高級車を買えばいい。
「自分はダメな無職だ」
と思うなら、ゲームして親にタカればいい。
いずれにせよ
「自分は○○だ」
というアイデンティティをもてる。
アイデンティティとは、自分をカタにはめることです。
人間は不思議なもんで、カタにハマってる方が安心する。
だから、自由になるより、自分を縛りつけることが好きな人がいる。
リタイア者でも同じ。
- FIREを指南するオンラインサロン
- 山奥ニートみたいなヒッピーコミュニティ
- 投資情報を交換するお金持ちコミュニティ
まーいろいろある。
でも
「リタイア/FIREしたから」
とカタにハマった生活をすると、つまんなくなります。
私は破戒僧です😂
リタイアしたのにUBERします。
無職というにはまーまー金を稼ぐ。
でも、人間は固定した存在ではない。
ゆれうごく存在です。
- 働かないのは気楽だが、金を儲けるのも楽しい
- ひとりでいるのが好きだが、ひとと遊ぶのも楽しい
- 田舎に住むのは落ち着くが、都会で遊ぶのも楽しい
そのときどきに、なんのしがらみもなく、好きなことをする。
それがほんとーの自由でしょう😘
梅の花咲いてた😍
終わりに リタイアもまた超越するのです
なんのためにリタイアするのか?
自由になるためです。
「労働に縛られない」
これは上です。
「労働しないことにも縛られない」
これは上の上。
「自分はセミリタイア者だ」
と思うよりも
「自分は社畜ではない。また、リタイア者でもない」
と考える方がいい。
そっちのが、たのしー日々を送れるでしょう……😘
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