孤独はタバコや酒より身体に悪い
と最近言われている。
孤独な人間は寿命が短く精神疾患や生活習慣病の発症リスクが高く、幸福度が低いらしい。
だが、私はこの説はどうなのかな、と思っている。
なぜなら人間は多様性がある生き物だからだ。特に孤独に関してはそうである。内向的な人間は孤独を好むだろうし、外向的人間は孤独が耐えられないだろう。
タバコや酒の人体への影響は研究されつくされている。タバコはすべての人間の肺をタールで汚すだろう。酒はすべての人間の肝臓に負荷をかけるだろう。それは間違いない。
しかし孤独がどういったプロセスで健康リスクを上昇させるのか、それは謎だ。なんとなればそれは「脳」で起きていることであり、「脳」は人間にとって究極のブラックボックスだからである。
だから、もしかすればある人間にとって孤独の方が幸福感が上昇するかもしれない。そういったデータは「統計」として平準化されると失われてしまうのかもしれない。
世の中には孤独に向いた人がいて、向いていない人がいるだろう。
孤独に適性がないとセミリタイアは難しい
孤独とつきあう
ともあれ、私には孤独がついてまわる。独身で一人で生活するセミリタイア者は当然孤独と向き合わなければならない。
なにせ一日にだれとも話さなくても過ごすことは可能だし、とくに自分から積極的に動くことがなければ、そうなるのがふつうだからだ。
もちろん、それは「寂しい」。認めてしまおう。私は自分の生活は寂しいものだと思っている。
でも、私は孤独にそれ以上のメリットがあると思っている。
それはやっぱり「自由」だということだ。
自分の生き方を否定する人はいないし、あれこれ指図する人間がいない。毎日、自分の意志にしたがって生きることができる。これは現代においてはリタイア者の特権といえる。
だから、孤独を愛するとは、「自由を愛する」と同義だと思っている。
自由を愛せない人間には、孤独を愛することは難しい。
快適さをとると自由はなくなる
快適さと自由はトレードオフだ。
これは私がYoutubeで米国で車上生活を送る人々の動画を見ていて学んだことだ。
車上生活といえば「キャンピングカー」が第一に浮かぶ。当然それがもっとも快適だ。広々としてくつろげるし、トイレもシャワーもついている。
しかし、車上生活者のなかではむしろ普通の「バン」で生活する人が多く、ついで「ミニバン」や「ステーションワゴン」で生活する人もいて、なかには「プリウス」で生活する人もいる。
彼らが言うには、キャンピングカーは快適だけど、狭い道は走れないし、入れるところが限られる。それにガソリン代などのコストが余計にかかる。だから「快適さと自由はトレードオフなんだよ」と言っていた。
私はそれにとても納得した。
快適で贅沢な生活は必ずしも良いものではない。究極的な快適さとは、古代ローマの高級貴族やエジプトの王族のように、食べ物でさえ奴隷に自分の口まで運ばせるような生活だろう。それは「快適」であるには違いないが、どう考えても「自由」ではない。彼らはある意味、奴隷がいなければ自分で飯を食うことすらできないのである。
そして、私はそういう生活が「良い」とはぜんぜん思えないのだ。
私は快適さより自由を選ぼうと思っている。
そしてこのことは、「孤独」についても言えるのだ。
たしかにいろんな人間との関係を維持していた方が快適だろう。たとえば嫁さんとか子どもがいれば、自分に役割があって、毎日やるべきこともわかるし、嫁さんとあれこれ相談して行く先を決めることができるし、嫁さんに指図して、あるいは嫁さんの指図に従って行動すれば、それは一人で生きるよりずっと快適なはずである。友達がたくさんいれば、彼らとつるんで気晴らしになるし、社会的に孤立しているという感覚が薄れるだろう。
一方で、嫁さんや子どもがいれば、自由には動けなくなる。
突然「フィリピンに移住するわ」なんて言えないし、「これから日本一周してくる」なんて言えなくなる。
というか、そもそも「セミリタイア」が困難だろう笑 おそろしく質素な生活なんだから。
だから、私は自由をとる。
飼いならされた生活?
私が「孤独者の寿命は短い」という記述を見て感じたのは、「野生の動物の平均寿命は、ペットの平均寿命より短い」ということである。
私は寿命が短くなっても、それはしょうがないと思っている。
私はとにかく、不便でも、快適ではなくても、「ペット」の生き方が耐えられないのだ。自分の意志でサバイヴする「野生」に生きたいのだ。
だから、私は自由で孤独な生活を楽しもうと思っている。