アメリカ人エリートに多かったのが、リーマン・ショックで本社管理が強まり、「自分のやりたいようにできない」ストレスにやられる人。自由にやりたい人にとって、管理されることはストレスなのです。一方、日本では経済混乱のなかで「自分で決めろ」と言われることにストレスを感じるビジネスマンが多かったようです。こちらは「自分で決めねばならないこと」がストレスなんですね。むしろ、あれやこれやとうるさく管理された方が落ち着くのです。(管理されるストレスと管理されないストレス コロナ禍による奇妙な現象:管理されたい(2/2 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン)
- 「管理されるのがイヤ」→セミリタイア向き
- 「管理されるのが好き」→社畜向き
管理されたい人、管理されたくない人
「このひとは一生社畜やってんのが幸せだろうな🙄」
私が社畜時代にもそんな人がたくさんいました。
管理されたい人たち――宗教・愛国心にハマる人
会社だけではありません。
- 神
- 国家
- 家族
- 倫理
などもそー。
「だれもいない交差点の赤信号で止まるか?」
は良いリトマス紙でしょう。
そこで私たちを管理しているのは信号(法規や倫理)です。
赤信号で止まるタイプは
「管理者」
を求めるタイプでしょう。
(私はバシバシわたりますが🤣)
「管理されることを求める」
これはおそらく人間本性に根ざしてます。
文明以来、非常にたくさんの人が「神」を信じています。
神は「私たちを管理する」最高存在です(特に一神教)。
その他、国家でも、父母、社会、科学、世間――なんでもいいですが。
- 「絶対的な存在を求める」
- 「その存在に身を任せたい」
というのは人類普遍の傾向でしょう。
おそらく生物学的レベルで。
そこでわたしは、domesticationという用語を最大限に拡張し、これを「再生と繁殖の管理」として理解したうえで、火、植物、動物だけでなく、広い意味での<飼い慣らし>として、奴隷、国家の臣民、そして家父長的家族における女性にも適応することを提案する。(「反穀物の人類史」ジェームズ・C・スコット)
もし「農業agriculture」が栽培者の視点から畑を見ることであるなら、人間へ比喩的に適用された「文化culture」という観念は、「人間を栽培する者」――すなわち管理担当者(マネージャー)――の目で社会的世界を見ることである。人間文化の概念には、その当初からずっと、管理が不可欠な形で組み込まれていた――管理は、後から付け加わったものでも、外から侵入してきたものでもなく、文化の前提であった。(「リキッド・ライフ」ジグムント・バウマン)
究極の自由:リタイア生活に感じる「管理の快適さ」
私は仕事をやめてぶらぶらしてるおっさんです。
基本的に、私を管理する人はいません。
究極の自由です😚
管理者は破壊した😜
しかし「管理される楽さ」を感じるときもあります。
UBERイーツでつぎつぎに注文が入るとき
「無心で」
働くことができます。
なにも考えなくていいのは楽ちんです。
治験で入院すると管理された生活が待っています。
メシの時間・内容は決まってるし、病院のなかで過ごさなきゃいけません。
が、そんな生活に
「快適さ」
を感じます。
メシのことは考えなくていい。
酒を飲む自由がないから超健康的だし、あちこちいく自由がないから読書がはかどります。
お坊さんが自宅より寺で修行できるようなもんでしょう。
こういった喜びは「自由」というよりは「快適」の喜びです。
ほとんどの人は
「完全な自由」
は苦手。
- 仕事しないと何をしていいかわからない
- 働いてる方が楽😙
とリタイア生活に拒絶感を持つ人がいるのも自然です。
そしてリタイア生活でも「管理される快適さ」は良いものです(たまーになら😅)。
終わりに 「どの程度の」自由がほしいのか?
「大企業に入ってまじめに働くのがいいんだ」
という管理された生活。
「リタイアして自分の好きに生きるのがいいんだ」
という自由な生活。
どちらも良いところがあり、悪いところがある。
正解はこのスペクトラムのどこかにある
問題は
「どちらをとるか?」
ということです。
それは「人それぞれ」というほかない。
あとは、あなたの判断です……😘
関連:「他人のために生きる」会社員vs「自分のために生きる」無職
関連:セミリタイア者に伝えたい「自由よりも大切なこと」
関連:【孤独のなかの自由】「自由」と「快適」はトレードオフです