よくかんがえたら別に他人を好きじゃない
「人と仲良くしなくていい」と気づいた瞬間
「かみさま人間関係をよくしてください😭」
とガキのころ泣きながら下校した記憶があります。
私はコミュ障でした。
他人と仲良くできなかった。
嫌われたり、喧嘩したり。
しかし友だちがほしかった。
「人気者」
がうらやましかった。
学校が、親が、メディアがいった。
- 「友だちをたくさんつくれ」
- 「友だちはすばらしい」
しかし私にとって友だちは不可解なものだった。
求めるほど――他者は離れていった😥
読書で「孤独」に目覚める
大学生の頃、私はとつぜん読書するようになった。
なんかしらんが朝から晩まで本を読んだ。
そこではじめて
「すげー思想家」
に触れた。
驚いたことには、彼らは「人気者」ではなかった。
むしろ孤独をたいせつに守っていた。
そして「他人と仲良くしろ」なんていわない。
たとえばこんなことをいう。
だれに人気があるのか、若者にとって近所の紳士気取りの俗物、カントリークラブの連中となら人気のない方がましである。なにに対して適応するというのか。堕落した文化に対してであるか。支配的な親に対してであるか、よく適応した奴隷をどう考えたらよいのか。よく適応した囚人はどうか。(「完全なる人間」A・H・マズロー)
それどころか偉大なる知者は孤独を選ぶだろう。というのも、その人自身に常にそなわっているものが多ければ多いほど、外部のものをますます必要としなくなり、他者はますます重きをなさなくなるからである。それゆえ卓越した精神の持ち主は非社交的になる。社交の質が社交の量で埋め合わせることができるなら、華やかな社交界で生きていくのも甲斐あることだろうが、残念ながら愚者が百人束になっても、賢人ひとりにおよばない。(「幸福について」ショーペンハウアー)
「人気者になる必要はないのか!😳」
と衝撃でした。
そこで私はよーく自問した。
- 「他人って必要か?」
- 「そもそも私は他人が好きなのか……?🤔」
そしてやっと……。
自分の本心に気づいた。
「べつに他人が好きでもねーな」
これは天地がひっくりかえる衝撃でした。
人生の大きなナゾがひとつ解けた気分
「人間が好きではない」からコミュ障だった
- なぜ私はコミュ障だったのか?
- 「人気者」のようになれなかったのか?
そのときやっとわかりました。
「私はべつに他人を必要にしていないのだ」
と。
ロボットに求愛行動させてもヘタクソです。
ロボットは愛情を必要としないから。
私が友だちを求める行動もヘンテコだった。
そもそも必要としてないから。
そりゃー他人も
「なんだこいつ」
となります。
そして他人を拒絶しまくる大学生に
それから私は変わった。
- 基本的にひとりで行動した
- ひとと食事をしてもほとんど話さなかった
- ひととつるむよりも読書や楽器を練習した
- SNSはやめた
- 他人がやってきたらどこかに消えた
- グループの会話が長くなったらどこかに消えた
スキゾイドちゃんにかなり近かったカモ
「そんなクソ人間嫌われるやろ😂」
と思われるかもしれないが、むしろ人間関係は改善しました。
- 「変わった人」「おもしろい人」扱いになった
- 他人に軽んじられることがなくなった
- 彼女もできた(すぐ破局ですが……😘)
- なんか失礼なことしても「あの人はしょーがない」と許された
「他人を求めない」
ことが私の自然体だった。
自然体でいるかぎりは
「けっこー他人って許してくれるんだな」
と驚きました。
終わりに そんなこんなで隠遁無職
結果どーなったか。
- ほとんど働かず
- 孤独に
- 田舎の一戸建てでもそもそ生活する
- 30代無職
です。
まあ完全に隠遁ではない。
完全な人間嫌いでもない。
人恋しいときは数人の友人と遊ぶ。
でもそれが終わればーー
ふたたび「絶対の孤独」。
負けおしみでもすっぱいブドウでもない。
私にはそれが「自然」なのです。
山の散策は楽しいゾイ!
- 家庭
- 職場
- 友人
「人間関係に悩んでる人」
は、こう考えてみてください。
「そもそも、私は他者を必要してるのか?」
あんがい、ひとりでひっそり暮らしてる方が楽しいかも……😘