「独りでほっておいてもらう権利」
(RIGHT TO BE LET ALONE)
って言葉が好き。
「ひとりでいる権利」を求めて無職になる
- ひとりは嫌い
- ひとりが好き
いろんなひとがいる。
人間はひとりじゃ生きていけない。
でも「他人とは地獄」なのも事実。
- だれにも会いたくない
- メールもLINEも見たくない
- というか人間がイヤ
という日がだれにもある。
社会を離れてひっそり暮らしてます
「きらいな人に会いたくない🤮」
が会社をやめた大きな理由です。
働くのはそんなに嫌いではなかった。
「職場の最大の悩みは人間関係」
とよく言われる。
「キライなひとには会いたくないのに会わなきゃいけない」
これは牢獄と変わらん😣
リタイアしてからはこんな生活が実現しています。
- 会いたくない人には会わない
- 好きな人でも会いたいときにしか会わない
- 連絡したいときしかしない
- ひとりになりたいときはとことんひとり
だれもいない山はちょー楽しい😍
人間はもともと自由です
狩猟採集民は共同体で生活した。
- イヤなやつはみんなで追放した
- 集団がイヤになれば去った
ある北方民族の子どもは一定の年齢になると、好きな家庭を選んで暮らすことができた。
血縁に関係なく。
これは現代のどんな子どもより「自由」でしょう。
「イヤな人にも会わなきゃいけない」
のは学校とか職場とか……。
不自然な環境でしかない🥺
個人vs社会
- コミュ障
- 陰キャ
- 社会不適合者
「非社交的は悪いこと」
とされる。
しかし、「社会 vs 個人」の対立軸で見たらどーか。
非社交的な人間は
「個人性」
をもつ。
逆に社交的な人、プロソーシャルな人は――
「個人性」
を喪失している。
摩周岳のこえーとこ
「リア充」
くらいならいいですが。
過剰に社会適合がすすんだらどーなるか。
全体主義やカルト宗教です。
- 自分より集団を優先させる
- 自分の財産・生命・自由も集団に奉仕させる
- 批判的に考える能力を失う
人間というよりは「道具」になりさがる😨
社会は幻想にすぎない
この社会は、個人に対して、嫉妬深いのだ。何故かといえば、個人は社会のような抽象物ではなく、現存するものだからだ。そして、社会は、いつも個人を抹殺するように出来ている。(某本)
- 個人は実在する
- (数十人くらいの)共同体も実在する
- 社会は実在しない
国家を
「想像の共同体」
と呼んだ人がいます。
結局、社会は共同幻想です。
この幻想を存続させるには……。
インプットしなければいけない。
- あなたはこの国の国民だ
- あなたはこの神に奉仕しなければいけない
- あなたはこの企業の一員だ
「個人を自己に奉仕させること」
が社会の目標です。
個人性はジャマでしかない。
そこで社会は
「私は私だ」
というアイデンティティをすりかえる。
「私は日本人だ/統一教会信者だ/トヨタ社員だ」
とか。
もし
- 個人性をとりもどしたい
- 本来の自分でいたい
ならどーするか。
多かれ少なかれ
「反社会的」
でなくてはいけないのです🤔
自己を守る義務は、いつも反社会的で、自己開放への努力だ。(同)
終わりに 好きなだけひとりぽっちでいます
「自分が他人の影響を受けるのを許さなかったことをよしとする。」ヴィトゲンシュタイン
反社会的といっても
- 犯罪しろ
- 爆弾投げろ💣
みたいな話じゃない。
「ひとりでいる」
だけでいい。
- ひとりで、自分の内心に耳を傾ける
- ほんとーの自分をとりもどす
それこそが反社会的行為。
ほんとーの革命であり……
ほんとーの犯罪です😂
そんなわけで、無職はこれからもひとりぽっちで生きていきます……😘
これは孤独な、むくわれない生きざまといえば、まさにそのとおりである。けれどもこれは、長いものには巻かれろ式に現状の悲惨を黙認することにくらべたら、いつも、はるかにまともな生きかたなのである。(某本)