暴君を殺すと社会はよくなる現実
山上ちゃんによる安倍ちゃん殺しの記憶がまだ新しいですが。
将基面貴巳氏の本に暴君殺しの記述があった。
暴君殺しは正しいのか?
以下は「従順さのどこがいけないのか」から引用。
「暴君」は「暴虐非道な指導者」ともかぎらない
「暴政? 日本は平和だからそんなのないよ😗」
と私も思ってた。
けど、暴政の意味はけっこー広いようで。
「暴政」なんて聞くと、暴虐非道な指導者による暴力的な政治のようなイメージがあるかもしれませんが、政治思想史の用語として、「暴政(テイラニー)」とは、一部の指導者が自己利益を優先させた結果、市民生活が疲弊し、自由と平等が損なわれた事態を意味します。
そのため、「共通善」思想を持つ人々は、決まって「暴政」を敵視するものです。
「一部の指導者が自己利益を優先させた結果、市民生活が疲弊し、自由と平等が損なわれた事態」……🙄
暴君はどーか。
「暴君」とは、自身とその取り巻きや暴君がひいきにする人々の利益だけを追求することで、一般市民の利益を犠牲にする政治を行う政治的リーダーのことです。
その「利益」とは経済的なものとは限りません。むしろ重要なのは、市民としての自由や平等という最も基本的な政治的価値で、それを侵害し、経済的にも市民生活を圧迫するような政治が、暴君による「暴政」です。
- 自由と平等を侵害し
- 市民を貧しくする
政治。
それが暴政だと。
イメージと違いますね🤔
「自国の指導者」こそ敵かもしれない
- 中国怖い!
- ロシア怖い!
- 北朝鮮怖い!😨
と私たちは怯えますが。
自分の政府のほーが怖いかも。
本来、市民としての私たちが、不正を犯しうる主体として最も警戒しなければならないのは、公権力である政府です。
なぜなら、政府こそが強制力をもって私たちの行動を束縛する権限を持っているからです。
公権力には、法律を盾に有無を言わさず、税金を徴収したり、私たちを刑務所に閉じ込めたりすることができます。
公権力の象徴的存在が警察です。私人である私たちが人に暴力を振るえば取り締まりの対象となりますが、警察官が警棒を振り回してもそれは職務を遂行していることとして問題になりません。
公権力は、このように強制力を正当に行使する権限があるのです。
逆に言えば、その強制力が合法的に行使されているかどうかを、私たちがチェックする必要がありますし、さらにその強制力の行使の仕方が道徳的にも許されるようなものなのかどうか、市民が判断する必要があります。
なぜなら、公権力には一般市民が持たない強制力があるために、その権力が間違った目的に使われるなら、私たちに不正を行うように駆り立てることが可能だからです。
公権力はその意味で極めて危険なものだ、ということを常に念頭におく必要があります。
「北朝鮮は恐ろしい存在だ! ほらまたミサイル落とした!」
といわれても、私にとっては税金をふんだくる日本政府の方が怖い😂
WW2をふりかえると、日本兵をたくさん殺したのは「鬼畜米英」ではなかった。
飢えと病気だった。
「ほんとーに怖いのは自国の首都にいる😨」
のかもしれない。
「法律」ではどうにもならないとき
- 「法治国家なんだから合法的になんとかすればいい!」
- 「社会に不満があるなら民主的合法的に解決しろ!」
というのはごもっとも。
でも、それは「ほんとーに」法治主義が機能していることが前提になる。
……私たちが生活する国家は法治国家である以上、通常は、あなたの生命や財産に対して危害を加える加害者を処罰するのは国家の役割であって、あなたや私のような一私人の役割ではありません。
だからこそ、警察や裁判所が存在するのです。
ですが、それは警察や裁判所がまともにその役割を果たしている限りの話です。
仮に警察や裁判所が加害者を放置するようになったらどうでしょうか。
しかも、時の政府が、責務を果たさない警察や裁判所を放置したらどうでしょうか。
その上、重税で人々の生活を苦しめる一方で、政府高官が不正を次々と行い、いい思いをしているとしたらどうでしょうか。つまり、法治国家の体裁は取っていても、法律がきちんと機能せず、国家が本来果たすべき義務を果たさなくなり、権力者だけの利益を追求するようになったら、どうすべきでしょうか。
悪いやつを捕まえようにも、警察も司法も機能しない……。
解決策としての「暴君殺し」
権力者を含むだれかの行為が不正であるにもかかわらず法によって適切に処罰の対象とならないとき、一般市民が自ら実力を行使したり、実力行使を示唆して脅したりすることを自警行為(vigilantism)といいます。
国家が本来果たすべき義務を果たしている限りでは、私人が、公権力に逆らって、処罰する権利を主張することは、認められていません。
しかし、法律が十分に実効性を持たない場合には、法を超えて、私人が自ら制裁する権限を持つと主張することは可能です。(太字は引用元)
本来、人を殺すことは最も凶悪な犯罪のはずです。
しかし、「共通善」を脅かす邪悪な権力者(つまり「暴君」)を殺害することは、むしろ最も高貴で偉大な行為である、とキケロは主張しました。
暴君による暴政を打ち倒すことによって「共通善」を防衛することこそが最も重要な政治的価値だからです。
この暴君殺害論は、ヨーロッパ政治思想の伝統として脈々と受け継がれているものです。
- 「人を殺すなんてひどい!」
- 「さすがにそんなことは許されないよ」
- 「テロを肯定するのか!」
とかいわれてるけど。
「最も高貴で偉大な行為ですよ?😗」
すごいなキケロ😂
◆
「キケロは殺人を肯定してるのか?」
というとそーじゃないでしょう。
むしろ
「殺人が悪いことだから」
じゃないでしょーか。
暴君を殺せば「共通善」が守られる。
しかし自分も殺人鬼に身を落とすことになる。
つまり、暴君殺しは(拘束されたり処刑されたりする)身体的なリスクだけではない。
倫理的なリスクでもある。
それを乗り越えて行われる「自己犠牲」だからこそ……。
「偉大な行為」なんじゃないでしょーか。
(まーキケロが実際どう思ってたかはしらんけど)
山上ちゃんを支持する民衆は多い。
政治腐敗が改善された「実益」もあるけど。
それとは別に「悲劇」の要素があるからかも。
スイス人の大好きなウィリアム・テルは暴君殺しの象徴
終わりに ルールを疑うのです
「従順さのどこがいけないのか」が書かれたのは山上以前です。
将基面氏が今回の事件をどう思ってるかわかりません。
ただ、たまたま手にとった本がかなりドンピシャな内容だったのでビビりました。
私たちが簡単に服従してはならない対象とは、自分以外の人間であり、その人間たちが勝手に決めた事柄(社会慣習やルール、法律)だ
「殺人や暴力はなにがあってもいけない!😣」
という前提も崩れつつある。
「働かなきゃいけない」
ってのも同じですよ😂
「自分のアタマで考える」
それがベストってこと。
慣習やルールの奴隷でいたら、最終的には
「他人の奴隷」
になってしまいます……😋