働かないで生きていくなんてムシが良すぎる
「食えなんだら食うな」
という本がファンキーでおもしろかった。
ソバ屋でモチをつまらせそ―な坊主だ😗
食えなければ飢え死にすればいい
「お寺が貧乏すぎて、兼業しなきゃいけないっぽい😥」
と、ビンボー寺をつぐ青年が著者に相談した。
私は、「兼職などという厭らしい誘惑に負けるな」と激励してやった。「だって」と青年は、言葉をかえした。兼職しなければ、食っていけない寺なんです――。
それでいいではないか。食えなければ食わねば宜しい。
「働きもせず、好きなことをする」人間は飢えて当たり前
いったい、高祖禅師(道元)いらい、お寺へ入ったら食える保証など、どこにもあったためしはない。お寺で食えるというのが間違っているのであって、お寺は食う処ではない。
もったいないことに、自分の修行に夢中になっているために、お百姓さんのように一粒の米も生産することができないから、行乞(ぎょうこつ)に出て、すみませんといって、一握りの米をタダで頂戴して、生き永らえさせてもらっている。
自分は僧侶として好きなことをやっているのだから、一握りの米も頂けなくなったら、誰を恨むでもない。そのときは、心静かに飢え死にすればいい。高祖いらい、みんなその覚悟でこられたからこそ、こんにちの禅門があり、禅僧といわれる人は、その祖風をしたって仏門に入ったはずである。
「悟りを開きたい🥺」
と、仕事もせずに座禅するのが禅僧です。
働きもしねーのに食えてるのは、一般ピーポーに乞食してるから。
「働かない人間が飢える」
のは、本来ならあたりまえ。
だから、もし食いものがなくなったら
「心静かに飢え死にすればいい」
となる。
「でも家族を路頭に迷わせるわけには……」
自分だけならそれでいいが、この先、きちんとした寺院生活をしていく上で、妻もめとらねばならず、すると自然、子も出来る。それを、養うてゆかねばならぬのである。自分だけなら食えなんだら食わなくて済むが、妻子を飢えさすわけにはいかない――。
なんということだ。
どの先徳が、そのようなことを仰せられた。禅僧が禅僧としての修行を全うするために、妻の協力が必要であると説かれたか。本来、禅をやるものには、妻子は養えぬのである。
……禅だけではない。自分で自分の好きな道に熱中するものは、まず妻子というものを斥けてかかったほうが無難であろう。好きなこともやりたい、妻子も食わせねばならぬというのは、それこそ二足のワラジであり、どだいムシの良すぎる注文である。
……私はさいわい、私の一途さにしたがって妻帯せずに来たが、その故に家庭という大きなお荷物からは解放された。このお荷物ゆえに、不本意に妥協したり、卑屈になったり、あるいは、そのために味わわされるであろう私の想像を絶するような断腸の思いからも解放された。思えば家庭をかかえ、日常をかかえている世の男性諸君は、私の修行にまさるともおとらぬ苦行をしておられるのかもしれぬ。いや、そうであろう。
「好きなことをしたいなら、妻子をもってはならない」
と戒める。
悪いことはいわない。まだ、妻帯の決心のつかぬ男性諸君は、この事の重大さに思いを馳せてほしい。家庭という重荷を背負うか、わが身一つの身軽さでゆくか、選択できる間に選択しておくことだ。
私は後者を選んだ。食えなんだら食うなとは、わが禅の古徳たちが口を酸っぱくして、いってこられたことだが、これは決して、痩せ我慢でもなんでもないということがわかったのが、その選択のこたえである。
食えなんだら飢えるのであり、飢えれば、死ぬまでである。実に軽がると、生きてこられた。
家族があれば、家族のために働かなければならない。
「食えなくなったから餓死するわ😂」
と死ぬ自由もない。
独り身だからこそ、好きなように生き、好きなように死ぬことができる。
実は「食う」のはなんとかなります
「食えなんだら食うな」
って壮絶なフレーズですが。
「食うこと」
は意外とどーにかなる。
私もビンボー生活して悟ったことです。
働かないのにキャベツ太郎+ビール😚
昔のお坊さんも、似たようなことを言っている。
以下は駒澤大学教授の言葉。
ところが宏智禅師が天童山の住職になりますと、当時大変人気のあった偉大な禅師であったので、さらに人が増えたんですね。お寺の中で生活する人が千人になり、外で生活している修行する人が五、六百人というような大勢集まってしまったんですね。その時に知事と言いまして修行道場の中で経営を司る―食料の調達とか、財政的なことを司る役の人がいるんです―その知事が宏智禅師に、「こんなに人が多くなりますと、修行することができない。だから少し禅師のお気持ちもわかるけれども、五、六百人減らさないとお寺がやっていけません」というふうに言うんです。そうしますと、宏智禅師が、「人々、皆、口あり。汝が事にあずからず。嘆くことなかれ」というんですね。「みんな口を持っているんだから心配することはない。ほっとけ」というようなことをいうわけです。それはどういうことかと言いますと、食べるということは誰でも食べないと生きていけませんからなんとかするんですね。そして着る物もないと困りますので、ほっといてもみんななんとかするものだ、と。そうであるから先ずは修行を怠らないように厳しく言っておかないと修行そのものがだんだんされなくなっていっちゃうんですね。だから非常に修行ということを厳しくいうんです。食べるとか、着るとか、ということは放っておいてもみんななんとかするものだ、と。信者のところに廻って食物を貰い歩くとかね。(道元のことば ④貧に道あり)
「このままじゃ経営ヤバいっすよ! みんな食えなくなりますよ!😱」
と知事がいうのに対し
「いや、みんな口があるからダイジョブ。ほっとけ😂」
飢え死ぬのが嫌なら、人々は勝手になんとかする。
- 3食が1食になっても
- 1日、2日断食しても
たいしたこたーない。
だから、飢えることなんて心配すんな。
飯とか服とか気にせず、好きなこと(禅僧なら修行)しようぜ。
「食えなんだら食うな」
は、修行の厳しさを示すより
「まあどーにかなるよ」
って言葉にも感じる🤔
終わりに 無職よ、飢え死にする覚悟はあるか?
「働かないと飢え死にする!」
という恐怖は、たぶん遺伝子レベルで刻みこまれている。
人類の最大の敵は「飢え」だった。
どれほど富があろうと、たぶん変わらない。
- 「働かないと怖い🥺」
- 「もっと蓄えなきゃ……😞」
となる。
「飢えの恐怖」
に対処するには?
死ぬまで働いて富を蓄えるか。
あるいは
「飢えたっていいじゃないか」
と腹をくくるか。
「飢え死ぬ? いいじゃないか。飢え死ぬならそれまでだ」
そんくらいの覚悟があれば……
毎日好き勝手生きていくことができます😘
まー、現代で飢えることなんてないんですが😂
人はそれ(自由)を、努力して掴むべきものだと心得ていたようだ。ところが、どうだ。人間、本来、自由なのである。誰も、自分を縛りつけているものはいないのである。縛りつけているものがあるとすれば、それは自分自身かもしれず、自分で自分を閉じこめているのである。そうではないか。
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