「努力すれば幸せになれる」
と社会はいいます。
ほんとーにそうなのか?
「NO🙅」
とクリシュナムルティはいいます。
今日は「自我の終焉」という本から引用していきます。
努力はクソ――byクリシュナムルティ
努力は自己中心的です
私たちはなぜ努力するのでしょうか。簡単に言ってしまえば、それは一定の成果を収め、ひとかどの人間になり、目的に到達するためではないでしょうか。
これらすべての努力は自我の活動ではないでしょうか。また努力は自己中心的な活動ではないでしょうか。もし私たちが自我を中心として努力するならば、それは必ずより一層多くの闘争や混乱や悲惨を生み出すのです。
- エリートになるため
- 金持ちになるため
- メダルや賞をもらうため
- 有名人になるため
- 良い父良い母になるため
私たちはがんばります。
でも、それはどこまでも「自分のため」でしかない。
受験勉強とは、他の学生を出し抜いて自分が合格すること。
出世競争でも同じ。
日本のママのつくるお弁当はスゴイですが……。
あれも愛情というより競争でしょう。
他のママに対する闘争なのです。
Fight againstなのです。
たべもので遊ぶな😤
参考:ハマると脱出困難…ママへ“キャラ弁競争”回避のアドバイス|日刊ゲンダイDIGITAL
努力では幸福にはなれない
もし努力することの意味がわかれば、私たちは人生の意味を理解することができるだろうと思います。果たして幸福は努力によってもたらされるのでしょうか。これまであなたは幸福になろうと努力したことがありますか。それは不可能なことではないでしょうか。あなたが幸福になるために奮闘してみても、幸福は生まれないのではないでしょうか。
これはなかなか決定的です。
「努力した先に幸せがある」
と信じるから、私たちは努力する。
- 大学に受かれば
- 就活に成功すれば
- コツコツまじめに働けば
- 良い人と結婚すれば
「幸せになれる」
と……。
でも「そーじゃねーよ」とクリシュナはいいます。
幸福というものは努力にやってくるものではなく、また喜びは抑制や抑圧によって生まれてくるものでもないのです。それにもかかわらず、私たちの生活のすべてが絶え間ない抑圧と抑制と、後ろめたい放縦の連続なのです。
「抑圧と抑制」とは、目標に向かって自分を統制してがんばること。
放縦とは、それで得られたもので豪遊すること。
努力してついに年収1000万円だ。
食いまくろう。夜遊びをしよう。買い物しよう。
もっともっとほしい。
次は年収2000万円だ……。
その連続です。
◆
「後ろめたい放縦」っていい言葉ですね。
世の中には飢えている人や貧しい人がたくさんいるのに、バカみたいな贅沢な暮らしをする。
これはふつーの感覚だと後ろめたいのです。
でも、「努力」はそれをごまかしてしまう。
- 自分はいい暮らしをしていいんだ。努力したから
- あいつらが貧しいのは、努力不足だからしかたない
努力はやはり「闘争や混乱や悲惨を生む」のです……🤔
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努力とは「あるがままのもの」からの逃避
努力とは、あるがままのものをそれとは違ったものに、つまりあるべきものとかなるべきものに変える闘いを意味してはいないでしょうか。私たちはあるがままのものに直面することを避けるために、絶えず闘ったり、あるいはあるがままのものから逃避しようとしたり、それを変えたり直したりしようとしているのです。
努力とはあるがままのものから目をそらすことなのです。「私」があるがままのものをあるがままに受け入れてしまえば、即座に闘争は終わるはずです。ところが、何らかの形の争いや闘争があるということは、その人があるがままのものから目をそらしている証拠なのです。
努力は「自己否定」です。
- 高卒やFラン大では自分はかっこ悪いから、有名大学に行こうとする
- 年収200万円じゃ価値がないように感じるから、高年収の仕事につく
- 未婚で子どもがいないと惨めだから、婚活する
人間はみんな不完全です。
老いて死んでいくだけの存在です。
でも、それを否定したい。
あるいは考えたくない。
だからあれこれがんばる。
でも、「ありのままの存在」から目をそらして、否定する――
それじゃ幸せになれっこありません。
目をつむって歩いても、目的地にたどりつけないのです🥺
「創造」は努力をやめたときに生まれる
私は自分の不十分さや、心の貧しさを知り、そこから逃げ出すために、あるいはそれを満たすために奮闘するのです。このような空虚感からの逃走や回避や、またその隠蔽には、必然的に奮闘や競争や努力が伴うのです。
それではもし逃避しようとしなければ、どういうことになるのでしょうか。その人はその孤独と空虚と共に生きることになります。しかもその空虚さをそのまま受容したとき、奮闘や努力とは何の関係もない創造的状態が出現したことに、私たちは気づくのです。
創造というのものは努力によるのでしょうか、あるいは努力をやめたときにのみ生まれてくるのでしょうか。あなたはどういうときに物を書いたり、絵を描いたり、歌ったりするでしょうか。あなたが創造しているのはどういうときでしょうか。明らかにそれは、努力をしていないときとか、心がすっかり開かれているときとか、あらゆる面で真の共感を感じていて、心が完全に一つになっているときなのです。……創造の瞬間は闘争から生まれてくるのではありません。
創造といっても、「技術的なものではない」とクリシュナはことわります。
絵画とか文章だけではない。
いまを生きる。自分と他者を区別せずに生きる。まったく新しいことをする。
こーいったことが創造です。
終わりに 努力を棄ててたのしー生活を送りましょう
何かになることは、あるがままのものの直接の回避にほかならないのです。自己認識と間断ない観察を通して、何かになるための闘いや競争は、結局は苦しみと悲しみと無知に終るのだということが分かるのです。あなたが内面の不十分さを自覚し、逃避しないでそれを完全に受容し、それと共に生きるとき初めて、あなたは驚くべき静寂を発見するでしょう。この静寂は、作ったり、組み立てたりしたものではなく、あるがままのものの理解と共に生まれてくる静けさなのです。この静寂の中にのみ、創造的人間が存在するのです。
はい。
私は33歳の無職でハゲてます。
コミュ障で酒飲みで未婚です。
でも幸せなんですよね~。
自分はただの人。
それ以上でも以下でもない。
だから努力なんてしません。
毎日したいことするだけ。
そーいう生活が
「すげー楽チン😘」
なのです。
そんなわけで、クリシュナちゃんのいうことには共感したのでした。
真に満足している人間というのは、あるがままのものを理解し、それに正しい意味を与えている人です。それが本当の満足なのです。
最後に。
クリシュナムルティは「ブッダやキリストの再来」とよく言われます。
が、私は「聖人」ではないと思ってます。
不倫のゴタゴタが……🤣
故・大野龍一氏のブログに詳しい:クリシュナムルティと二重人格|祝子川通信
まあ、世の中そんなもんです。
完璧な人間はいない。
ブッダやキリストだって、ただの人だったでしょう。
完璧な人間になる必要はないということです。
「努力」
はポイです。
ありのままを受け入れましょう……😘
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