400年前、早期退職して旅・読書・執筆にあけくれたおっさん
宮下志朗氏の「モンテーニュ 人生を旅するための7章」を読みました。
モンテーニュ……
完全に「リタイアブロガー」です🤣
ミシェル・ド・モンテーニュとかいうリタイアブロガー
38歳の誕生日に、ミシェル・ド・モンテーニュは、久しい以前より法廷での隷従と公務という重責に倦み疲れたがため、すでに多くを過ごしてきたとはいえ、いまだ残されている克服すべき日々を静かに平穏に暮らすために、壮健であるうちに、博学な女神たちの胸元に引きこもることにした。運命よ、この先祖伝来の住まいという快適な隠れ場所を、彼がみずからの自由と平安と閑暇に捧げることを許し給え
これがモンテーニュの「リタイア宣言」です。
もともと法官だったモンテーニュ。
どーやって早期退職したのか?
「親の遺産」でした。
父親が亡くなり、お城と財産を継いで、その2年後に退職しています。
いわば「持ち家リタイア」です。
豪邸ってレベルじゃないぞ🤣
モンテーニュが引きこもった塔
モンテーニュのリタイア生活は「読書、執筆、旅」
リタイア宣言にあるように、城にひきこもって読書に没頭しました。
ただ2年目くらいから精神があまりに自由奔放になって、いろんなアイデアが浮かぶのでそれを書き記すことにしました。
それが「エセー」です。
特定のテーマはなく、おもいついたまま書きます。
まあブログみたいなもんです。
「高尚な古典とブログを一緒にするな!😤」
と怒られそうですが、ほんとに気ままな内容です。
- 「りんごがあまり好きではない」
- 「メロンが好き」
- 「ラディッシュ(大根)は好きになったり嫌いになったりする」
- 「食べるのが早すぎて、舌をかむことがある。ときどき指も噛む」🤣
エセーはとにかく分量がすごく、死の間際まで加筆修正をつづけました。
あとは「旅」です。
温泉旅です。
モンテーニュは腎石を患っていました。
湯治のためと、あとは好奇心が強いのであちこちを旅してました。
ちなみにモンテーニュは「完全リタイア」ではなく「セミリタイア」です。
退職したあとも、頼まれて市長をしたりしてます。
モンテーニュ「社畜はクソ」
人間はだれもが、自分を貸し出している。本人の能力が本人のためではなく、服従している人のためになっている。つまり、本人ではなくて、借家人がわが家同然にくつろいでいるのだ。こうした一般的な風潮が、わたしには気に入らない。人間は自分の精神の自由を節約して使って、正当な場合でなければ、これを抵当に入れてはならない。
わたしも気にいらない😤
宮下ちゃんはいいます。
彼はいまならば、いわゆる猛烈社員にはとてもなれないタイプの人間だし、名誉心はあるけれど、出世にはあまり興味がなさそうだ。上昇志向の強い人間とは一線を画しているし、「なかには、さまざまな職務につくごとに、変身し、……その職務を便所にまで引きずっていく」人間もいるといって、いわば会社第一主義を皮肉ったりする。
まさにリタイア者……🤣
「働くならオンとオフをハッキリしよう」
われわれの職業・仕事のほとんどは、にわか芝居のようなものだ。≪世間全体が芝居をしているのである≫(ペトロニウス)。われわれは、自分の配役をしっかり演じなくてはいけないが、その役を、借りものの人物として演じるべきだ。……顔におしろいを塗れば十分であって、心にまで塗る必要はない。 ……わたしの場合、市長とモンテーニュはつねに二つであって、はっきりと分けられていた
働くことは、ほとんど演技にすぎない。
会社員は会社や仕事にアイデンティティをおきがちですが、仮面と自己ははっきり分けるべきだ、と彼はいいます。
「野心を追い求めるな」
野心家の連中は、まるで市場の広場に立つ彫像さながら、いつでも衆人の目にさらされているが、これは野心に仕返しされているのだ。≪偉大な運命とは、偉大な隷属なのである≫(セネカ) 連中ときたら、便所のなかでさえ、プライバシーがない。
野心的になるのはいいけど、成功すればかえってプライバシーを失う。
有名人とかけっこーたいへんですよね。
また、こうもいいます。
仕事から離れたぞと思っていても、それを取り替えただけのことが多い
無為と隠遁から名誉を引き出そうと望むなどは、なんとも卑怯な野心というしかないぞ。動物のように行動しなくてはいけない――彼らは巣穴の入り口で、きちんと足跡を消すではないか
「隠遁者(リタイア者)として有名になろうとするのはヤメとけ」
ってわけ。
これはちょっと耳が痛かったです。
雑誌やテレビの取材を拒否する「人生よよよ氏」の姿勢が正しいのでしょう。
「お金にあんまり執着しない」
わたしが無知に手を貸してやっているのは、本当だ。つまり、自分の金に対する知識を、わざと少しだけ、漠然とした不確かなものにしているのである。……まあ大体において、身分相応の暮らしができるだけのものが残っていれば、運命が施してくださった余分なものは、いわば落ち穂拾いする人間の分け前、いくらかは、運命のなり行きにまかせようではないか。
モンテーニュはお金に無頓着でした。
下人がネコババしたりしてもあえて見てみぬふりをしたようです。
「心配や気苦労ほど高くつくものはない」
と彼はいいます。
彼は資産の増減なども、あまり気にしなかったらしい。「自分がのんきなせいで、かさんでしまった費用」を、「わが無頓着さの宿賃として」「帳簿の支出項目に入れておく」と語っているのが、いかにも彼らしい。恬淡としたなまけ者、そして自己中心的な男なのだけれど、欲のない人間なのであった。
と宮下ちゃん評。
「恬淡としたなまけ者」ってなんかいい表現だなあ……。
モンテーニュが「欲がない」のもあるでしょうが、リタイアするとお金に執着がなくなるんですよね。
「身分相応の暮らしができるだけのものが残っていれば」まあいっかってなります。
「孤独になれる自分の居場所をゲットしよう」
われわれの本当の自由と、極めつきの隠れ家と孤独とを構築できるような、完全にわがものであって、まったく自由な、店の奥の部屋(アリエール・ブチック)を確保しておくことが必要だ。そしてこの部屋で、きわめて私的にして、外部のことがらとの交際や会話が入りこむ余地もないような、自分自身との日常的な対話をおこなわなければならない。
モンテーニュは自分の塔のなかで孤独に生活しました。
- 私の150万円ハウス
- からあげ隊長の小屋
- 人生よよよ氏の杵築市のアパート
なんでもいいですが、「孤独が保たれる場所」があるべきだとモンテーニュはいいます。
私も同感です。
「読書、マジでサイコー」
書物との交わりは、わたしの人生行路において、いつでも脇に控えていて、どこでも付いてきてくれる。老年にあっても、孤独にあっても、わたしを慰めてくれる。……「もうじき読む」とか、「あした読もう」「気が向いたら読もう」などといっているうちに、時が過ぎ去っていくのだけれど、別にそれで気を悪くしたりしない。書物が自分のかたわらにあって、好きなときに楽しみを与えてくれるのだと考えたり、あるいは、書物がどれほどわが人生の救いになっているのか認識したりすることで、どれほどわたしの心が安らぎ、落ち着くのか、とてもことばで言い表せないほどだ。これこそは、わが人生という旅路で見出した、最高の備えにほかならない。だから、知性がありながら、書物を欠いている人が、大変に気の毒でならない。
彼はきのむくままに本を読みまくっていました。
エセーもセネカやプルタルコスの引用が多い。
私も本好きなのでほんと共感します……😍
「過去の仕事の成果を捨て去ろう」
きみは今日まで、泳いだり、浮かんだりして生きてきた。そろそろ死ぬために、港に入ったらどうだろうか。人生の大半を光に与えたのだから、こちらの部分は、影に与えるがいい。仕事の成果を手放さないかぎり、仕事から離れるのは不可能なのだから、名誉や栄誉といった心配事は、すっかり捨ててしまうのだ。きみの過去の行為の輝きが、まぶしいほどにきみを照らし出して、隠れ家にまでつきまとってくるおそれだってある。他の快楽といっしょに、他人の承認に由来する快楽も捨ててしまえばいいではないか。
「これまで築き上げたキャリアがある」
とリタイアはかえって難しい。
「過去の栄光」を捨て去ることで静かな生活が可能だと彼はいいます。
「旅をすると偏見がなくなる」
わたしはいつも、旅行する理由を人に聞かれると、「なにを避けているのかはよく分かっているのですが、なにを求めているのか、自分でもよく分からないのですよ」と答えることにしている。
これはとても有名なフレーズです。
こうもいいます。
好みのままに、左へ、右へ、上に、下へと、その時々の風に吹かれるままに、あちこちの方角に運ばれていく。自分がなにをほしいのかは、その瞬間になって、はじめて思いつく
モンテーニュはかなり放浪癖があるんですね。
私が彼のフレーズで好きなのは「ほとんどのひとが帰るために旅に出ている」というものです。
「異国にあっても、現地の文化を軽蔑して自国の風習のとおり過ごし、異国の人と交流せず自国の人とばかりつるみ、なんのために旅してるのかわからない」
そんな人を批判してます。
とくに当時のフランスは「世界でいちばん進んでいる」という自負があったから、フランス人にとって「異国は野蛮」だった。
「文明人は偏見だらけだから旅した方がいい」と彼はいいます。
これはほんとただしいです。
「老いはろくでもないこと」
「人間の精神は、老いとともに、便秘をもよおして鈍くなる」
「わたしは何歳も年をとった。でも、少しでも賢くなったかといえば、それは疑わしい」
老いは「顔よりも、精神に、たくさんの皺をつける」
「老人は長く生きてるから賢いんだ、偉いんだ」
という考え方をモンテーニュは否定します。
これは早期リタイア者らしい考え方です。
私がモンテーニュが好きなのは、ズバズバ言うことなんですよね。
- 「人間はみんな同じ、王さまだろうと女だろうとうんこする」
- 「人間が自分の肉体を支配してるというのは間違い、ちんちんだってインポになる」
とか。
「エセー」は「ちんちん」「うんち」「おなら」がしばしば登場します。
これは当時としては革新的です🤣
「文明人より野蛮人のほうがまともやんけ」
「わたしからすれば、死んだ人間を食べることよりも、生きた人間を食べるほうが、もっと野蛮なことだと思う。死んでから、それを焼いて食べるよりも、まだ感覚が十分に残っている肉体に、拷問や責め苦をくわえて、引きちぎってばらばらにしたり、じっくりと火にあぶったり、犬や豚に噛みつかせて、なぶり殺しにしたりするほうが、よほど野蛮なことではないか。……それも、仇敵どうしのできごとなどではなくて、隣人や同じ町の住民どうして、しかも、信仰と宗教に名を借りておこなわれているのである」
「生きた人間を殺すってどゆこと?」
ってことですが、宮下ちゃんによれば「高利貸し」のことらしい。
「われわれが、わが肥満せる高利貸したちのしていることを真剣に考察するならば、彼らは、私の語る未開人たちよりも遥かに残酷であると言わねばなるまい。彼らは後家であろうが、孤児であろうが、その他哀れな人々であろうが、誰彼かまわずその血や骨の髄を啜り、結局は生きながら食ってしまうのだ」(ブラジル旅行記)
借金はクソ……。
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「自分を楽しむのがサイコー」
自分の存在を、正しく楽しむことができるというのは、ほとんど神のような、絶対的な完成なのだ。われわれは、自分自身のありようをいかに使いこなすのかわからないから、他の存在を探し求めるのだし、自分の内側を知らないために、自分の外側に出ようとする。でも、そうした竹馬に乗ってもどうにもならない。竹馬に乗ったとて、どっちみち自分の足で歩かなければいけないではないか。いや、世界でいちばん高い玉座の上にあがったとしても、われわれはやはり、自分のお尻の上に座るしかない。
もっともすばらしい生活とは、わたしが思うに、ありふれた、人間的なかたちに、ぴったり合ったもの、秩序はあるけれど、奇蹟とか、逸脱や過剰はないようなものである。
「自分にあったちょうどいい生活」
がベスト。
豪奢な生活や、簡素すぎる生活がいいわけではない。
素朴で、自然で、自分にぴったりあった生活がサイコーということです。
ここにモンテーニュ思想の真髄があります😍
終わりに モンテーニュは元祖リタイアブロガーだった
モンテーニュ、完全にリタイアブロガーです。
しかも私と価値観がとっても似てます。
400年以上前の人物ですが、親近感がすごい。
やはり読書はいいです。
気のあう友人がひとり増えた気分になります😘
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