「自分の存在意義がわからない!😣」
FIREした人にはそーいう人がいます。
はたしてリタイア無職に存在意義はないのか?
今日も佐々木閑氏の阿含経の講義から引用していきます😘
ブッダ「他人を助ける必要はない――自分のことだけちゃんとやれ」
- 「自分だけが幸せになっていいのかよ」
- 「他人のためになんかしろよ😥」
これは2600年前から非難を受けてました。
仏教徒が😗
仏教はある意味「エゴイスティック」な宗教です。
とにかく「自分が大事」。
仏教のいろんな教えを聞いてますと一番最初に
「人のために何かしましょう」とか
「人助けが一番大事なことです」というような話は出てこないんですね
常にお釈迦様の教えのメインになる主張は
「自分で努力せよ。それが自分自身を救う唯一の道だ」
という風に自分を救済する。
自分が苦しくてたまらない人がどうやってその苦しみから逃れるかというそういう話なんですね。
だからまわりからブーブー言われました🥺
昔からその仏教、とくにお釈迦様の仏教はある意味非難の対象になることもありました。
つまり自分のことにばっかり関わっていて人のことを考えてないじゃないか。みんなのことを考えていないじゃないか。了見が狭いじゃないか。というわけでこれを小乗仏教という風にまあ蔑称で呼ぶこともあったわけですね。
「自分のことばっか気にかけて、社会のためにはなーんもならんクソ宗教」
とか言われてたのです……😂
他人を直接助けない「もうひとつの利他」
利他には実は2種類の形態がありまして
一つは私たちがよくまあイメージできるような積極的に人のために良いことをしてあげる、まあ要するに「対面」ですね。
その人に良いことをしたり、たくさんのものをあげます
いろんな手助けをしてあげます
助言もします
もっというとあなたの人生を私が引き受けますって
こんなこともありますね
これはまあ他者に対する積極的利他です
これが一般的な「利他」です。
ボランティアをしたり寄付をしたり。
「働いて社会貢献!」
みたいなのもこれ。
でももうひとつの利他がある。
それに対してもう一つ別の形の利他があって
これは何かというと
「その人ができないことをやってみせてあげる」
という利他です
その人はやりたいんだけどもできない
そのできない人ができるようになるためにその人に、
まあ言ってみれば「教えてあげる」「教育をする」
というこの利他ですね。これも立派な利他なんですね。
「人生よよよ氏」とか「からあげ隊長」を思い出しますね。
どちらもリタイア無職系ブロガーです。
私が立派な無職になれたのは彼らのおかげ……😂
手をさしのべるより「背中を見せる」
対面でその人のために何かしてあげるという利他は相手の人は成長しないんです
「何かをあげます」「これで生活を保障してあげます」「助けてあげます」
これはもう直接役に立つけれども、しかしながらその人の成長という、その人が変わっていくということに関しては役に立たないんですね。助けちゃうからね。
それに対して2番目の利他――つまり「教える」というかたちの利他――は直接そのときにはその人の役には立たないように見えますけれども、ゆくゆく長い目で見るとその人自身が変わり、そしてその人の能力が広がり、そしてもっというと生き方の選択肢がどんどん広がっていく、という意味においてこの教えるという利他は非常に強い力を持つわけなんです。
「物資をあげても根本的に解決できない🥺」
と貧困国のボランティアで困ることがあるようです。
道を示す方が「強力」なんですよね。
ブッダは
- 「あなたを助けてあげますよ!😙」
- 「うちの教えに従えば天国いけるよ!🤗」
とはいってない。
「俺についてくるならついてこい」
って感じだった。
それで結果的には、歴史上の数十億人に影響を与えている。
ある意味で「超権力者」です。
ヒトラーや安倍ちゃんでもある世代のある国の(特定の)ひとしか支配できなかったんだから。
彼ら(ブッダ、キリスト、ピタゴラス、ガリレオ)が求めたのは、他の人々を奴隷にするような権力ではなく、人々を解放するような権力であった。……人々が支配されるのは、究極的には暴力によってではなく、幸福、精神の内・外の平和、我々が選択の余地なくそこにおいて生きなければならないこの世界についての理解、という人類共通の欲求にアピールする人々の知恵によってである。(バートランド・ラッセル)
「第二の利他」はウソが少ない
対面で人を助ける利他っていうのは、場合によってはそこに嘘が混じってくることが、つまり人を助けてみせている、私はあなたを助けている人間であります、助けてあげましょう、というその「助ける」という行為自体が、実はその人の欲望の充足の手段として使われることもあるんです
情報セミナーでもよくあります。
「世のためひとのために!」っていう詐欺。
その20:そのうち「成功する前は道端の草を食べて生き延びた」と、かなり飛躍したストーリーに発展し、途中で号泣。
その21:最終的には「日本の貧困層を無くして、経済の活性化させたい!」などと政治家のマニフェストみたいなことを言い出す。
(【金儲けの闇】悪徳アフィリエイトで使われる「詐欺的セールスあるある」40連発 | ロケットニュース24)
「あなたを救いたい!」
ってヤツはだいたい詐欺師です。
政府は防衛費増大のために増税しようとしてますが。
「あなたを外国の脅威から守るためです!🤗」
って言ってるけど
「戦争より増税で死ぬ人の方が多いのでは?🤔」
と感じます。
はたして「敵」がいるのは外国なのか、自国の首都か……。
それに対してこの「後ろ姿の利他」というのはその人のあり方そのものが人を惹きつけていくわけです。
だからそれは言葉で語るものでもないし、わざと見せるものでもない。
日々のその人のあり方そのものが人を惹きつけ、そしてその人を周りの多くの人がその後ろについていくという形なんです。
本人は別についてきなさいと言っているわけでもない。
「皆さんきてください、私と一緒に団体作りましょう」
ってそんなことを言ってるわけでもない。
「私は自分の道を進んでおります」
というだけの人のその姿が多くの人の気持ちを引きつけ、そして後に続く人たちを引っ張っていくということになると。
これはですね、その利他に嘘が混じる可能性が低くなるんです。
ゼロとは言わないけどもね、でもまずないでしょ。
インチキな人は、その姿というもの見抜かれてしまいますからね。
そういう意味でこの2番目の、まあ釈迦が目指した利他というのは、そういう意味ですごく地味だし、そのありのままの姿がすぐ人の役に立っているとは思ってもらえない。
そういう淡い形の利他なんだけれども、しかしその分「信用度が高い」ということなんですね。
こっちのほうが「ピュアな利他」だと。
人生よよよ氏も「俺は本を書かない。メディアにも出ない」的なことを言ってますが、それでもフォロワーは多い。
それは彼が「ホンモノ」だからでしょう……。
リタイア無職の存在意義――「資本主義探検隊」の隊長
「リタイア無職に存在意義なんてあるのかよ?」
という本題。
人が自分のために努力することはどういう功徳があるか。
それはその人が一生懸命努力をしているその後ろ姿が同じような努力によって同じ場所を目指す人達に対しての最高の教育の姿を示すことになります。
先に先に進んで見せる、もっと言うと道を切り開いて先頭を行く。それによって後ろに続く人たちがその道を辿って同じところへ行き着くことができるようになると。
まあ探検隊のあの隊長みたいなもんですね。先頭に立ってジャングルを開いていくみたいなそういうイメージでの利他というのがあります。
これが実はお釈迦様が考えておられた役に立つということの意味なんですね。
リタイア無職は、ある意味「パイオニア」です。
働かないで生きていけるポスト資本主義者――というか資本主義的支配からエクソダスしたひとです。
- どーやってリタイアしたか?
- いまどんなリタイア生活を送ってるか?
それを示すだけでかなり存在意義があります。
私みたいにブログを書くだけでもいい。
ブログなんて時給500円以下だけど
「世のためひとのため」
なとこもあるのです😂
終わりに あなたの存在意義は「自分を幸福にすること」
人が自分のために努力するその姿が誠実でそして崇高であるならば、その努力は必ずや多くの人たちに対して功徳をもたらすことになるんだ、ということを申し上げたいと思うんですね。
そういう意味で決してお釈迦様のおっしゃる仏教というのが自分勝手で人のことを考えない、昔小乗仏教と言ってバカにしていたような人たちが言ってるそんな悪口には当たらないんだということを申し上げておきたいと思います。
「人が自分のために努力するその姿が誠実でそして崇高であるならば、その努力は必ずや多くの人たちに対して功徳をもたらすことになる」
これすごく大事なことだと思いますよ。
- 自分をどんどん幸せにする
- そんで他人も幸せになる
だから世の中ってのはすげーシンプルなんです。
たしかに
- 身近に苦しんでる人がいる
- 資本主義社会はグロテスク
- 世界は戦争だインフレだ不況だと大騒ぎ
- 地球もぶっ壊れそう
でもやることはひとつでいい。
「自分が幸せになること」
もちろんその努力が
「誠実で崇高であるならば」
という条件はつきますけどね……😘
(しかし佐々木閑氏はほんと講義がうまい。書き起こして感じます)
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