あなたに自由は必要ないかも……😏
セミリタイア者に伝えたい「自由より大切なこと」
自由には二種類ある
「自由はすばらしい!」
とだれもがいいます。
が、自由にも二種類ある。
- Free from
- Free to
マルクスは社畜を
「二重の意味での自由」
といった。
これは
- 生産手段(農地とか工場)をもたない
- 土地に縛られない自由
ということです。
「生産手段をもたない」
ってのは「Free from」です。
自分で稼ぐことができないから
「御社で働かせてください😣」
となる。
「土地に縛られない」
ってのは「Free to」です。
「千葉県に生まれたら千葉県の領主様のために働かなきゃいけない😥」
ってことはない。
東京の電通様でも愛知県のトヨタ様でもいいのです。
「なにからの自由」ではなく「なにへの自由」か
何からの自由だというのだろうか?それがこのツァラトゥストラに何の意味があるだろう!あなたの眼ははっきりと、わたしに告げなければならない。何をめざしての自由であるかを!(「ツァラトゥストラはこう言った」)
とみんな大好きニーチェ先生はこういってます。
ここではFree from/Free toが対比されてます。
ツァラトゥストラおじさんが言うとおり、私たちは「Free to」を重視すべきなのです。
リタイア生活でも同じです。
Free from:労働から/上司から/社畜文化から自由になりたい
ってのもいいんですが。
Free to:自由になってなにをしたいのか
ってのが大事です。
そーしないと
「リタイアして自由になったとたん虚無に襲われる」
ということになります……🤣
目指すべきは自由よりも「自分になること」
自己所有者は生まれながらの自由人であり、本来的自由人であるのだ。それに反して、自由人とは要するに自由を求める者、夢想者、空想者にすぎないのだ。(某本)
今日この記事を書く理由になったのはこの記述です。
(エッチなのでタイトルはふせます)
この本では「自由」を求めるあまり「自分」を疎外するなと説いています。
「自由」より「自分」が大事
――これってわりとあたりまえです。
なんのために「自由」を求めるのか?
「自分」が求めるからです。
- お金がほしい
- 恋人がほしい
- おいしいもの食べたい
のはなぜか?
「自分」が求めるからです。
「お金/恋人/おいしいもののために自分が犠牲になる😥」
ってなったらアホです。
自由も同じ。
つまり「自由」とは目標ではないのです。
自由とはひとつの道具――もっというと、ひとつの「力」なのです。
「セミリタイアしない方がいい人」はたくさんいる
力はどうやって身につくのか?
「必要に応じて」
です。
- 受験で合格するために勉強する
- マッチョになりたいから筋トレする
- 仕事をやめたいから財産を蓄える
逆にいえば、自由は万人に必要なものではありません。
あなたが「社畜的人間」なら会社員を続けた方がいい。
- 「宝くじ当たったから仕事やめるわー🤤」
- 「なんかFIREブームだしリタイアしてみっか🤔」
ってのは手段と目的が逆転しています。
「自由のために」
自分を置いてきぼりにしている。
「社畜ライフが向いている人」
なんて世の中たくさんいます。
社畜ライフはたしかに不自由で、奴隷的、屈辱的、画一的です。
しかし資本主義社会がもし人間本性と
「かけはなれた」
システムならとっくに崩壊しているでしょう。
つまり、人間もあるていど資本主義に「適応進化」しているかもしれない。
そーいう
「適応人」
に自由は必要ない。
彼らには
- 社畜でいること=「自分でいること」
- 自由でいること=「自分を疎外すること」
なのです。
終わりに 「あなたは」自由を必要としているのか?
- セミリタイアして不幸になる人
- セミリタイアして幸せになる人
がいます。
「どちらが良い」ではありません。
どちらも「自分の」幸福を追求するべきです。
私は仕事をやめてすっげー幸福度があがったけど😚
逆に「FIREを卒業」する人がいてもいい。
問題の中心は
「自由」
ではないのです。
「あなた(自分)」
なのです。
それが30代無職男性からのメッセージです……😘
「汝自らを知れ」ということばは古い世界の門口に書かれていたことばであった。新しい世界の門口には『汝自らであれ』という言葉が書かれなくてはならない(オスカー・ワイルド「社会主義の下での人間の魂」)