山の中に入って自然を友とし、音楽を友として、その日その日を暮らすのが、どれだけに良いことか
「方丈記」に学ぶ無職スタイル
佐藤春夫訳の朗読動画から書き起こしてます。誤字脱字多数。
50歳で完全リタイア
捨てがたきよすがもなし
ついに50歳の春にはまったく家を捨て、苦しい世を捨て、まったくの遁世を決心して、それを実行したのである。もとより私は孤独の身で妻や子はないのであるから、そうした家族の愛に引かされるということは全然ないのだから、そういったことには全然悩まされることもなかった。
また高位高官や尊い官職やたくさんの俸給などというものには、全然用事のない身であるのだから、なに一つとして俗世に引きつけられるようなものもなく、大変に楽に世を捨てることができたのである。
長明は就職希望者でした。
神職に就こうとしたが、身内の抵抗でチャンスを失った。
「もうめんどくさ……🤮」
となってリタイア(出家)したのでした。
定住というより、かんたんに解体・移動できる住処。からあげ隊長感ある
無職ライフには平穏がある
ただ静かなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす
今自分はこうして寂しい山の中へ来て、ただ一間しかないところの狭い家に住んでいるけれども、精神は誠に平安で、毎日毎日を非常に楽しく暮らしているのである。
その上にこのように粗末なすみかだけれど私はこの住処をこの上もなく愛しているのである。
リタイアすると
「心の平穏」
がやってきます。
安全で充足している。
多くの住処がたびたびの火災のために焼け失せたという話を聞くのであるが、この卑しい自分の住処だけは火災にも合わず、真に平和なものである。
どのように狭いものであったところで夜の寝床あるのだし、昼の書経をしたりするところもちゃんとあるのだから、自分自身が住む上にはなんだの不便も不足も感じないのである。
ヤドカリが小さい貝の中に住むのもきっと自分の身の程をわきまえてのことで、ヤドカリには小さい貝が相応した住処なのである。
またミサゴが人を恐れるのあまりに、波の荒い海岸にいて人々を近づけないのである。
ヤドカリやミサゴのように、自分は自分なりの小さい住処にすみ、そうして世の中の儚さ、自分の運命の哀れを知って、世を離れてこうした山の中に住み、富も求めず位も求めずに、まして俗世間と交際あるようなこともなく、ミサゴやヤドカリが自分自身だけの平安を楽しむようにただ独りで、何の不安もなく、暮らしているのである。
都会に豪邸をもてば、災害、疫病、泥棒、地位の転落、核ミサイルに怯える。
ヤドカリのように、小さな家に満足すると安心があります。
友だちなんて別にいらん
現在の世の中においては人の友だちになるためには、まず何よりもお金持ちでなければならず、そしてその人に慣れ親しむということでなければならず、必ずしも情に深くて素直であるということは必要とされないのであるから、このような軽薄な友だち付き合いをするくらいならば、それよりも山の中に入って自然を友とし、音楽を友として、その日その日を暮らすのが、どれだけに良いことかしれやしないのである。
お金持ちは友だちが多い。
他人に媚びるひとも友だちが多い。
でも、そんな友だち付き合いはつまらん。
ひとり自然や音楽を楽しんだ方がいい。
とはいえ長明はキッズと登山したりしてます。
その子どもは10歳で、私は60の坂を越している年寄りではあるが、年こそ違っているけれども、2人で山を歩いてお互いに楽しむということには少しも差し支えはなく、まったくの良い友達同士なのである。
かわいい……😍
人を雇うのは逆にめんどい
もしなすべきことあれば、すなわち、おのが身をつかふ
また人の使用人になろうとするような人々は、まず給料の多いことを望み、何でもお金になるところへのみ行きたがっている始末で、可愛がって情けをかけてやって養ってやっていても、給料が少なかったりすると、決してそこには使われていることは承知しない有様なのである。これでは人を使ってかえって苦しまなくてはならないのである。
「たくさんの人を従える」
のが成功者とされる。
でも実際はめんどい。
自分の身ひとつで満足した方がいい。
そこで使用人を使わずに自分自身を使用人にするのが一番に良いことなのである。……
私の身は、ふたつの使用人を兼ねているのである。
一つは手で、これは召使いのようをしてくれるのだし、一つは足でこれは乗り物の役をしてくれて、どちらも私を十分に満足させてくれるのである。
「実際、体を動かしてた方が健康にもいいよね」
と彼はいいます。
衣食なんてテキトーでいい
人に交はらざれば、姿を恥づる悔もなし
藤の衣、麻の夜具といったもので、着るものは十分に間に合うのであって、それ以上のものは不要なものなのである。……ほかの人々とはぜんぜん交際しないのであるから、どんなに貧しい身なりをしていたところで、誰も何ともいうものでもないのだし、また食物のいたって乏しい山の中であるのだからどんなにまずいものでも美味しく食べられるのである。
- 衣類はテキトーになる
- メシはなんでもうまい
これはビンボーリタイアあるあるです😂
うままままま😍
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都会に行くと社畜が哀れに思える
乞食となれることをはづといへども
たまたま京の方に出て托鉢をするのであるが、そんな時には自分がこんな乞食坊主になったことを恥ずかしいとは思うことがあるのだけれども、この小さな自分の住処に帰ってみると、俗世の人々が浮世の冥利にのみ執着して暮らしているのを考えてみると、それらの人々が哀れにさえなってくるのである。
私もたまに都会へ出ては、マクドナルドや図書館で乞食します。
「卑しいなあ😅」
と思うこともあるが……。
「よく考えたら社畜よりマシだな🤔」
となります。
無職生活はやってみないとわからない
住まずして、誰か悟らん
私がこんなことを言えば、人々は「お前は夢のようなことを言う」というかもしれないが、しかし魚や鳥の生活を深く考えてみるとよいのである。
魚は一生を水の中に暮らして、少しも水に飽きることがない。また鳥はその一生を林の中で送ることを願っているのである。この鳥の気持ちや魚の気持ちは魚自身、鳥自身でなくては知ることができないのである。
私もそのように山の中で世を離れてただ一人住んでいるこの心持ちは、本当にそうした生活をやってみなくてはわかるものではないのである。
山の中の閑居の楽しさ、寂しさなどには俗世では味わうことのできない深い味わいのあるものであって、本当に実践した人でなくてはこの味はわかるものではない。
この味は高位高官にのぼるよりもお金持ちになることよりも数等ましで、私には良いことであり、楽しいことなのである。
「やってみなきゃわからない」
魅力が無職ライフにはあります😘
魚が水に飽きないように、リタイア者は閑居に飽きない。
適性がある人にはドンピシャです。
聖人っぽい生活だけど……
姿は聖人にて、心は濁りに染めり
何も聖人君子になろうとしているのではないけれども、話す相手とてもないこんなところでは自然と無言の行をなすことになり、また自然と仏様の道を行なうようになってしまうのであって何も自分からの助力でこうなったのでは決してないのである。
ただビンボー隠遁無職してるだけですが
「ムダに霊性が高まる」
感はあります😂
自分がこうして浮世を逃れて山の中へ入った最初の目的は何だったかといえば、それは仏様の道に精進しようとしてやったことなのであるが、それにも関わらず自分の生活というものを考えてみると、外見は聖人のようではあるが、その心持ちはまだまだ聖人には遠く及びもつかないもので、全く俗人のごとくに濁ったものなのである。
……自分がどうして悟入で消えなかったかと自問自答しても、何らの答えも与えられなかった。
「ああ、悟れなかったなあ😥」
と方丈記は終わる。
このわびしい最後がまたいい。
終わりに 日本人の心に響く無職スタイル
800年も前の本ですが。
私のような半隠者にも
「わかるー👈 😍👈 」
となった。
こんなリタイア無職本が
「古典日本三大随筆」
とされるんだから、日本人は実はリタイア大好きなのかもしれません。
- 地位を高める
- お金持ちになる
それよりずっと楽しい隠居ライフ。
「やってみなきゃわからない魅力」
を体験してみましょう……😘
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