こんなに登山にハマるとは
と思った無職です。
この夏で百名山は20座のぼりました。
リタイアすると
「隠れた才能」
が見つかるのです……😘
リタイアすると見つかる「隠れた才能」
- 無職でヒマ
- 運動不足だし歩いてみるか
- 歩くの楽しいな、金かからんし
- どうせだし山登ってみるか
- もっと高い山登りたい……
- もっと遠くの山登りたい……
ついには北海道まで行きました
「日帰りで30km登山した」
といえば、けっこーすごいと言われます。
たぶんちょっとは才能がある。
関連:【日帰り30km】「トムラウシ短縮コース」からヒサゴ沼・化雲岳
働いていないと隠れた才能が見つかります
もともと適性があったんだと思います。
- 家の裏山に登るのが好き
- 歩いたり走るのがやたら好き
- 放浪癖がある
そんなボーイでした👶
しかし、大学生〜社畜時代はほとんど運動してなかった。
「もし働きつづけてたら……?🤔」
登山にハマらなかったかもしれない。
「時間と体力」
をつかいます。
働いていたら時間も体力も奪われてしまう。
もともと適性があったんだと思います。
けっこー北海道ロスです……またいきたい😔
「自分にこんな才能があったのか😲」
と思ったことは他にもあります。
- ウーバーイーツ:時給4000円いきました
- バイク転売:買った値段の倍で売れます
- ゲリラ野宿:キャンプ場以外で野宿できます(才能なのか?😂)
無職でヒマで自由だと隠れた才能が見つかる感じです。
「使われない才能」は病気の原因になる
やかましやの能力は使われなければならない。それらがよく使われたときにのみ、そのやかましやはやむのである。つまり、能力はまた欲求でもあるのである。
……使われない技能や能力や器官は、病気の中心となり、あるいは委縮したり、消滅したりする。そしてついにはその人格を縮小させることにもなるのである。(「完全なる人間」アブラハム・H・マスロー)
「能力はまた欲求でもある」
っていい言葉ですね。
能力があるのにそれを使わないと。
人生がつまらないどころか、病気になってしまうとマズローはいいます。
- 音楽の才能があるのにサボる
- 数学の才能があるのにクソ仕事している
と人間は腐ってしまう。
「1円にもならない」けれども……
- 「でもそんな才能発揮してなんになるの?」
- 「登山なんて1円にもならないし自己満足じゃん」
1円にならなくてもいいのです。
「自分が好きだからする」
が
「お金のためにする」
となってしまうとダメなのです。
「転倒」が生じる。
「お金」が「自分」の上に立つ。
行為と自分がきりはなされてしまう。
資本主義においては、ヒトとモノとの間、主体と客体との間の関係に転倒が生じているのです。主体が客体化し、客体が主体化しているのです。モノ(貨幣、資本、機械)が社会の主体になり、その反面、ヒト(労働者)が社会の客体になっています。社会関係は、外観だけでなく実質においても、モノの間の(貨幣と国家との間の、あなたのお金と私のお金との間の)関係になっています。その一方で、人間は社会性を奪い取られ、商品交換のためになくてはならない補足物である「個人」にかたちを変えてしまっているのです。(「権力を取らずに世界を変える」ジョン ホロウェイ)
「やりたいことやる」
ハッピーに暮らすにはそんだけでいーのです😏
終わりに 才能を発揮することがしあわせ
- 鳥は飛んでいるとき幸せ🐤
- 魚は泳いでるときが幸せ🐠
人間はけっこー個人差があります。
ひとそれぞれ違う才能をもっている。
それを発揮することが幸せなんでしょう。
- 自分がやりたいことをガンガンやって
- もっとやりたいことが生まれて
- もっとやりたいことができるようになる
セミリタイアってぐーたら過ごすことではない。
自分のしたいことをして、世界を広げていくことだと思います。
賃金労働なんてしてたら。
そんな才能も発揮できないのです……😘
究極的な心の平安を願うなら、音楽家は音楽を、画家は絵を、詩人は詩を書いていなければならない。人は自分のなり得るものになる必要がある。(「マズローの人間論」エドワード・ホフマン)